オザケンにとって、2年ぶりとなるツアー。
今折に触れて思い出すのは、新しい曲の演奏シーン。
「ドアノック」だとか「ラブリー」だとかオザケン黄金期の聴き込み・聴き慣れた曲の演奏でなく。
魔法的電子回路のきらきらとした光景とともに思い出す。
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魔法的電子回路。眩しいくらいの強い光。 |
「魔法的ツアー」は、新曲とその歌詞にクローズアップした内容だった。
公式ページのオザケンによるツアーに向けてのメッセージは、
新しい曲をたくさんやります、ということだった。
その宣言通り、多くの新曲が演奏された。
アンコールには、新曲のみのダイジェスト演奏もなされた。
真っ暗な会場で、魔法的電子回路が光る中、ファンキーな演奏が始まる。
1stアルバムのリードトラック「昨日と今日」での幕開けだ。
以降立て続けに新曲が披露される。
曲調は「Do It Again」や「Peg」のようなものがあったりと、フェイゲンやスティーリー・ダン等、80’sニューヨークを思わせるものが多かった。
NY在住のオザケンだけあって、本場の音を体現しているかのようだった。
歌詞は殆どがバックスクリーンに映し出されていた。
新曲の歌詞を、新たなメッセージを頭に刻み込んでほしい、ということだろうか。
映し出された新曲の歌詞は、かつての曲の平易でダイレクトに伝わる歌詞とはうって変って、よりアカデミックな言葉で紡がれ、レトリックが幾重にも含蓄されたものだった。
正直、一回見ただけでは理解し難く、哲学書を読んでいる気分に近いものを感じた。
(とある新曲には「文学的」 という直球過ぎる言葉があって、これに関してはどうしたものかと思ってしまった。)
この日も歌われたかつての人気ナンバー「ドアノック」「ラブリー」のように、恋愛によって人生を謳歌する明快なラブ・ソングは新曲にはなかった。
ただ、その本質は変わらず、「愛」だったり、「生きることへの歓び」だったりということは何となく伝わってきた。
とりわけ印象的だったのは「フクロウの声が聞こえる」という新曲だ。
2曲目に演奏され、アンコールとして一番最後にもフルで演奏された。
いわば、エピローグ・プロローグの役目の曲といったとこだろうか。
森の中でお父さんとその子供がでてくるメルヘンチックなシチュエーションの歌詞だった。
内容は
世界は広いし、生きていればいろんな事が起こる、ときには辛く悲しいことも。
だけど「愛」や「歓び」といった素晴らしいこともあるんだよ。
・・・というようなことをうたっているように感じられた。
このように教訓を含んだ童話を読むような、父親目線の優しさが多くの新曲から伝わった。
かつての曲には見受けられない歌詞だった。
こうした歌詞に見られる変化は、世界の様々な国を旅し、結婚して父親になったオザケン自身の変化ゆえのものなのだろう。
「都市」と「歌詞」~松本隆から小沢健二へ~
歌詞と言えばもうひとつ触れておきたいことがある。
松本隆とオザケンの関係についてだ。
日本のロック/ポップスを中心とした魔法的の会場SEは、
ceroや片思いといった最近の曲から昭和歌謡まで新旧問わずの選曲だった。
中には、大瀧詠一「君は天然色」や松田聖子「SWEET MEMORIES」といった松本隆作詞作品も流れた。
かの松本隆は今回のツアーの大阪講演を観に行ったようだ。
オザケンとは20年ぶりの再会だったという。
オザケンのライブに行った帰り。素敵な夜。話すのは20年振りかな、麻布十番のレストランで会った以来。 @ Zepp Namba https://t.co/pPnm4i8sSu— 松本 隆 (@takashi_mtmt) 2016年6月6日
両者の歌詞に共通するのは
「都市」やそこに生きる人を、文学的で洗練された言葉で描いた点だ。
この魔法的ツアーと並行して2都市で美術館ツアーが行われた。
そのタイトルは「言葉は都市を変えてゆく」というものだった。
このタイトルが示す通り、オザケンの音楽は「都市」「歌詞」が重要なキーワードである。
ソロとして活動する以前のリッパーズ・ギター時代から、都市に生きる人のライフスタイルを描き、都会的音楽のムーブメントである「渋谷系」の象徴となった。
松本隆はというとはっぴいえんど時代から風街という都市を描き、70年代80年代のいわゆる「シティポップ」の中心的存在となった。
フリッパーズ・ギターの片割れ小山田圭吾が細野晴臣と強い繋がりがあるならば、
オザケンは松本隆といったところだろう。
テクノやミニマムミュージックというジャンルにおいて世界的に有名となった細野と小山田。
歌謡曲において「街」や「都市」を根底とした、文学的な歌詞でヒット曲を生みだした松本と小沢。
ちなみに某音楽誌が発表した邦楽アルバムベスト100において、
80年代と90年代の第1位はそれぞれ大滝詠一「A LONG VACATION」と小沢健二「LIFE」であった。
はっぴいえんどからフリッパーズ・ギターへ
各々のソロへ
日本のロック/ポップスにおいて受け継がれていくバトンが垣間見えた。
魔法的とは、おとぎの世界にいるような非日常的シチュエーション
「魔法的ツアー」の演出は語弊があるかもしれないが、「お遊戯」そのものだった。
「お遊戯」といっても決して子どもじみたものではない。
おとぎ話のお遊戯の世界にいるような、非日常的な演出だった。
まず、演奏者の衣装。
オザケンは頬に白い波のようなペイントを施し、カラフルな草花が描かれた髪飾りのようなものを左おでこにつけていた。
オザケン以外の演奏者はカラフルな頬のペイントに加え、草花があしらわれた派手な冠のようなものを被っていた。
衣装自体は白を基調とした変哲のないものだったが、この顔周りの演出はなんだかお遊戯っぽかった。
そして、歌いながら皆で踊ろう、という演出。
今回に限らずオザケンのライブは皆でうたって踊って楽しむことが醍醐味のようなものだが、
今回新しい曲の演奏時にがっつりと聴衆の参加を煽っていた。
新しい曲の歌詞や振り付けをオザケン自身がレクチャーする場面があったのだ。
何公演も観に行く人もいて、そういう熱心なファンはレクチャーのなかった新曲の振付も歌詞までもマスターしていた。
たくさんの大人がお遊戯をするのは不思議な光景だった。
(個人的には聴き慣れた曲ならともかく、初めて聴く曲を歌って踊って楽しむことは気恥ずかしかった。
気後れしながら、このツアーを見に行っているであろうタモリも踊ったのか、ということが気になった。
入園前に幼稚園児の「きらきら星」かなんかのお遊戯を見て、オレはあんなことするくらいなら幼稚園には行かないと決意したというタモリ。いくら オザケンが好きとはいえ、踊らないよな・・・)
最後にこのライブの演出で、一番印象に残った閉幕時のシーン。
それはおとぎ話のお遊戯の世界にいるような非日常的な空間から、フッと現実に戻った瞬間だった。
アンコールも演奏し終え、退場しようとするオザケンが、
やだー、とただをこねる観客に向かって、
「大丈夫、大丈夫だから・・・!」と
もう子どもじゃないからね、というようにあやす口調で言葉を投げかける。
セリフじみた、だけど最高に素敵な魔法の言葉を皮切りに、静かに暗転、閉幕した。
「日常に帰ろう」
ほんとうに静かに、フッと魔法が解けたようだった。
思わずゾクッとする粋な引き際だった。
「フクロウの声が聞こえる」
朝目覚めたとき、電車を待っているとき、この曲がふと脳裏によぎることが幾度もある。
魔法的電子回路の光の瞬きとともに。
新しい曲で唯一2回演奏されたから、とりわけ焼き付いてしまった。とてもやさしい歌。
「帰り道に体に残っているのは、新しい曲たちだと思います。」
という、ツアーに向けてのオザケンの言葉通り、新しい曲が体に残った。
こんなふうになんでもない日常の中に、非日常的な瞬間がよぎるとき、
ああ自分は今、魔法にかかっているんだな。
ささやかな魔法に。
なんて思ったりする。
魔法的ってこういうことなんだろうな。
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